昭和48年10月16日 教祖90年大祭
御造営の報告のお祭りをあわせて、御本部のゴヒレイをもって今日、只今親先生の切なる祈りのなかに、今日はおかげを頂きました。私は今日のお祭りは普通の教祖大祭にあわせてと言うことかと思うておりましたら、親先生から今度のお祭りはそうじゃないんだと。教祖九十年の記念のお祭りを、御本部のゴヒレイを頂いて、親教会の祈りを頂いてさせてもらうのぞと言う事を頂きまして、はぁ成程そうかと言う事を改めて分らせて頂きました。六回にわたってお祭りが御本部で、教主様ご祭主の下に開かれた。
その六回目が今日ちょうどここの十時半のお祭りに、あちらが終わりましたわけです。それをまぁ引き継ぐ様に、そのお祭りをこちらがさせて頂いた訳でございます。只今行徳先生から、大変結構なお話を頂きました。もう本当にお外し難い所を、親先生から電話をして頂いて、尚おかげ頂こう御用いただこうと言うことで、まぁおいで頂いた訳で御座いますが、只今のお話を一つ是からの、私共の信心の上に頂いてい苦事が、教祖様へのお礼であり、又は天地の親神様のお喜びであり。
同時に私共も、おかげを頂いていく事でございますから、おかげを頂いていかなければなりませんが、どうでしょう皆さん今日の、只今の先生のお話を頂かれて、どこが一番有難かったですか。その有難かった所をね、育てていかなければいけません。ね。私はお話を頂きながら、あのお婆さんが、あの教主様が笏を取り落とされた、と言う所を聞かせていただいた途端に感動しました。本当にあのお参りをされて、皆さんも拝まれたんですけれども、もう大体私と同じやっぱ糖尿病なんです。
金光様はそれですから、もう大変最近、おやつれになっておられる。それでもあの厳しい御神勤のなかに、しかもあの御大祭を仕えると言う事は、もうどの位な心気か苦労か分からんのです。しかも六回も続けてお祭りを奉仕されなければならんのですから、生身を持っておられる教主様がね。眠りになるのはもう当然のことです。もう本当に金光様相すみません有難う御事ます。私共の信心が出来んから本当に金光様に、お一人にあぁいう、おご苦労をかけておるような思いが、一遍にこみ上げてまいりましてね。
私がそこを有難いと思うた。その金光様に私共がどう、応えていったら良いのだろうか。今度皆さんもそれぞれに、御直会を頂きになりました、教主様のお書き下げの色紙がございます。実意を持ってすべての事を大切にという、お書き下げで御座いました。私はもう、ここに置かなければいけないと思うです。もう実意をもって本当に、ね。すべての事を大切にしていくと言う信心にならせて頂くと言う事がです。私は教主様にお応えする事であると同時に、ね。又は教祖様へお喜び頂ける事だと思います。
不思議に昨日の朝も、今朝もでございましたけれども、同じ御理解を頂きました。十八節の。ね。此の方の事を生神、生神と言うが、みんなもこの様なおかげが受けられる。ね。生神とはここに神が生まれると言うことであって、ね。皆んなもこの様なおかげが受けられるぞと。同じおかげが受けられるぞとお示し下さっておる。昨日の朝もそうでした。今朝もやはりそうでした。勿論角度を変えての色々な深い、初めて感じさせて頂きます御教えでございましたけれどもです。
結局はどこであるかというとすべての事を、実意をもってすべての事を大切にすると言う事だと言う事なんです。ね。此の方の道はもう真心一つで、人が助かる自分も助かる。真一つで真心一つでと言われております。私は昨日今日でしたか、昨日ですね昨日一昨日でした。ある方のお届けをさせてもらいましてから、その方がこういうお届けをするんです。もう大変熱心に、信心も出来ますし。それでいてもお母さんとなかなかその、折り合いが良くないのです。
それでもう、しっかりと一つこちらが信心になって、真心になって真心になってと言うておりましたけれどもです。もう今日ばっかりはという様な風なんです。話を聞いて、私もその嫁さんに同情しました。まぁあんたげん婆しゃまばっかりは、ちょいともうろくな人じゃなかのち、私も一緒に悪口言いよった。はっははね。もう親先生私はもううちの婆しゃまばっかりは、どがしこ真心でしたっちゃ、それを反対へ取りなさる。今日も聞いて下さいこうこうでしたと。
聞かせて頂くとほんなこて、あんたが腹かくとが、ほんなごつと言うごたる感じでした。それでも又、こら自分を抜いてまた神様へ、又その事をお取次ぎさせて頂きましたらね。この位なあの焚き物です薪です。薪がこう一把頂いて、その薪のなかを絞ってある綱がぷつっと切れて、その薪がばらばらになる所を頂いた。はぁ成程薪とか薪と言う事は、私は真心と頂かなければならないと思う。まという事は真のまと頂いて、きは心というですから真心。真心、真心と言うておるけれども、ね。
それが途中で切れるようなのは、真心ではないて。どんなささやかな事でもです。それを、貫き通すことが真心なのである。ね。皆さんもまぁご承知の通りです。私がなかなか親不孝者ですから、親先生に何時もご心配ばっかりかけておる。ね。私が段々おかげを頂くようになって、ちょうど四年半親教会に疎遠になるような結果に、その当時なっている。まぁ様々な事がございました。ね。
それでも私はね五年間、毎日お日届けだけは致しました。毎日お初穂を立てて、それに名を、こう書かせて頂くのが是はもう必ずね。それはもうこら神様のご都合なのだから。ね。途中色んな事がありました時に、例えばそんならもうこれぎりと言うとったら、私のは真心じゃなかったと思うです。所が私は五年間続けさせて頂いて、あの五十年の記念祭にです。本当に信者時代に思うておった。
あぁいうおかげも頂きたい。こういうおかげも頂きたい。ましてや記念祭とでもなったなら、ほんにこん位なおかげ段頂きたいと思う事が、おかげでその当時です、ね。十分今は違います。足りないのですけれども、その五年間のそのお初穂が、それに充てられました。と言う様にです。おかげでいわゆる私の復帰も叶い。ね。親として親先生または、私を弟子として、おかげを頂けれる様なおかげを頂いております。ね。
ですからもうあの、例えていうなら向こうが向こうじゃけん、こっちもこっちち言うたら、もう真心じゃないです。それはどんなに麗々しゅう例えば、昨日一昨日の嫁さんじゃないけれども。それはもう麗々しいです瑞々しいぐらいに、親孝行しようと努めておるんです。真心で接しておるんです。けれども途中でもうあの婆しゃんにばっかりは、もう幾ら真心でしたっちゃ、反対どんされるけん、辞めたとこう言うたらです。もうそれはあなたのは、真心ではないと言うことになる。ね。
新歌舞伎のあの十八番に、紅葉狩りというのがございます。始めの間はそれこそ水の滴るようなお姫様であります。そのお姫様が段々段々正体を現して、あの恐ろしい鬼に化していくと言う筋のお芝居ですね。どんなに瑞々しいどんなに、それこそ口水の垂れるような、良い事を言うてもです。それは嘘ではない、そん時は本当かも知れません。けれどもですそれが途中で、挫折する様な事であっては、真心ではないと言う事。
どんなささやかな事でも良い。ね。それが続けられなければならない。それが真心なんだ。真心と言う事が色々に説かれます。また私共も色々に頂いてきた。けれども昨日今日、いただく真心と言うのは、成程それが真心だろうと、こう私も感じさせて頂きました。あの人は真心の厚い人じゃと申します。ですから真心にも厚いがあり、薄いがあり大きいがあり小さいがあるのです。
ですからそういう間違いの無い真心を、日に日にの信心の稽古によって、それを育てていくと言う事なんです信心とは。それが和賀心が神に向こうていくと言う事であり、成程是ならば教祖様がお約束下さっておる、私共でも生神に向って進んでいけれるという、その、間違いのない道をです。是はこの世で出来ん時には、あの世でも又金光様のお取次ぎを頂いて、生神へ生神へという信心を進めていかなければならんのです。ね。
真心だ、真心だと言いながらもです。それが途中で変わる様な事であったり、挫折するようでは真心ではない。成程是じゃおかげが頂けん筈だと言うものを、一つ分からせていただいて、おかげの頂けれる道をです。愈々極めていかなければなりません。ね。私の今日のお祝詞の原稿は、親先生が書いて下さった。祓い詞も書いて下さった。もうあの身体のお弱いのに、何日がかりで書いて下さった。
それをまた持って帰って清書致しました。それをお聞き下さった通りで御座います。私はあのこうして書くからと言われますので、お願い致します。それから急に私もまた、思いついた事がありまして親教会に参りましたら、丁度親先生が椅子にかけながら、それをまた原稿を書いておって下さるとこであった。親先生今度親先生に書いて頂きよりますがそのなかに、先生あのもう一つ、書き添えて頂きたい事があります。
私は親先生が夏の祈願祭の時に、お祝詞の中に今度三井教会が、五十一年に七十年の祈念の御大祭がございます。それを目指して、お広前改造の願いが、いわば親先生の発願された、その事がお祝詞に出ておりました。私は夏の御大祭にそこを聞かせて頂いてね。はぁ親先生が神様にね、言うならばもう願われて誓われておる、あのお言葉を聞いた時にね。こら私も思い立たなければ、私も発願しなければと、もうその事だけを一心に思うて帰りました。帰りましたら本当に思いち有難いですね。
ここのあの農業組合の方達が、何人かで見えましてね。ぜひ貯金に参加かたってくれともぷ、是非かたってくれと。今までこんな事は初めてでした。ね。そしてほんなら、今日は先生が居りませんからと言うて、明日来て下さいと言う事だったそうです。そん時に私は思いました。はぁ神様ちゃ本当に有難いなぁ、こっちが本気で発願したらです。もう神様がその貯金をさせようとなさる。あくる日みんなで見えましたから、まぁささやかな貯金ですけれども、月々貯金させて頂いて。
これを親教会の御造営のそれこそ、一端にでもお使いいただく事のために、始めました。それでもまぁだそれは、御本部御造営の、あっとる間でございますから、私共は最後に、何かの御大祭を頂いて帰りまして、八日の日に、親先生の所へ参りまして、ね。親先生、今度のお祝詞のなかに、親教会の御造営の事の祈願を、一言書き添えて頂きたいと私が申しましたら、親先生も大変喜んで下さった。
そらそうたいなぁ、あんたがあぐるとじゃけん、あんたがお願いするとじゃけん、やっぱあんたとしては、そこん所が必要、ほんならそこんところも、書き加えとこうと言うて、今日御祝詞に私は奏上致しましたように、おかげを頂きました。すぐそこの入り口の所に、昔のお賽銭箱があります、このくらいのが。あれに今までは御本部御造営の真心を、みんなが献金しておりましたが、あれを親教会御造営のための事に、私が発願しましたらあらあら、ご信者の中にもです。それに奉賛して下さり。
それに心を合わせて下さる方達が、段々出来てまいりましておかげを頂きました。是がもう何時まで続くか分かりません、ね。けれどもね私はこれをね、切ってはならない絶ってはならない。是はささやかな思いですけれども、この真心を本当に愈々育てて、大きなものにしていかねければならないという念願を立てさせて頂いております。私はあれを読ませて頂くとに、何回も何回も繰り返し繰り返し、稽古をさせて頂きます。
稽古をさせて頂いてそこの所を、読ませて頂くと胸が詰まって、ものが出らんくらいに感動するんです、私。これはねとてもとてもね、あの私の感動ではない、親先生のお喜びだ。初代の親先生のまたお喜びだ。いやまたは神様が喜んでくださってあるんだ、金光様が喜んでくださっておる、その感動がこのようにして、伝わって来るんだと、私は思っております。ね。どうぞあそこに箱がございますのでね。
もう不浄がかかってはなりません。もう本当の思いの丈をです。それぞれの分相応の事をです、ね。思いを込めて一つ、奉祭していただきたいとお願いする次第でございます。今日は大変時間が遅くなりまして、ゆっくり行徳先生のお話を頂きましたので、私のお話をゆっくりすることも出来ませんけれども、何と言うても、この九十年の記念のお祭りを境にです。ね。私共がね。いわゆる教主様がお書き下げ下さった、実意を込めてすべてのことを大切にと言う事は、実意と言う事は、実の意と言う事ですから。
是は薪であり真心なんです。だからあの実意こそが、金光教的に表現された真心なんです。しかも全てを大切にそれをここでは、御事柄又は御物として頂けと、こういっておる。成り行きを大事にして行けとこう言っておる。そこの所の信心を愈々深め極めていくと言う事がです。生神へ向ったいく事と同時に、ね。教主金光様にもお喜びを頂き、ね。勿論教祖様にも天地の親神様にも、お喜び頂ける事だと私は確信いたします。
どうぞ皆さんのお家にも、あれがある訳で御座いますから、もし万一あの御本部にお初穂を託けておられなくって、あの頂いておられない方は少し余分をございますので、あの色紙を頂いてそしてこの信心をね、一つこの御大祭を境に改めて実意とは、ね。全ての事とはと、私共が皆さんなりに極めさせて頂いて、全ての事を実意をもって、おかげを頂いていく信心を、愈々身に付けて行きたいと思います。
どうぞ只今から大変遅くなりましたけれども、御直会が出来ておりますので、どうぞ御直会召し上がってどうぞ。途中最近は大変交通事故が頻繁にございます。私はやっぱり用心が大事だと思う、ね。ただ神ながら神様の御大祭の帰りだからなどという考え方が甘い。いやそれは実意を欠くことであります。やはり私はこれは何時も思うんですけれども、ちょっと親先生久留米まで行きますと。
何簡単に言うて行く人の事を、私はもう愈々本気で神様に願います。でないと久留米まで行って、途中でバスにはねられたなんて、車にはねられたなんて言ったら、ね。先生にお願いしとったばってんという事になりますから、ね。こと重大という様な事は、えらい真剣に皆さんが、お取次ぎを願われますから、もうそれはそれだけでおかげ頂くと思います。あまりに簡単に無造作に言う所にです。
過ちというものは起こるのです。ね。この位の事だからと言うて、お粗末にすることは、もうすでに実意を欠く事ですから、私共はそこの所が大変、欠けておると思うのです。実意を込めて全ての事を大切にさせて頂く信心を愈々、私共の信心の、信条ともさせて頂いて、おかげを頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。